やっとこさ免許証を取る。


しかしあの免許証用の写真というのは万人が絶対に変な写り方をしていると感じてる気がする(そもそも僕はたいした顔じゃないし、写真写りもいいとは思わないけど)。

それはもしかしたら写真を取る側のスタンスや立場によるのかもしれない。あっち(オマワリ)からしてみれば何十人もいる中から写す一人に過ぎないわけで、言うなれば草むしりの草と大差はない。いちいち草の抜き方や抜いた草の美しさなんて気にしても意味がないし、そんなことを気にしていたら仕事になんてならない。つまりは質より量なわけで、別にどう写そうと効率的であればいいわけである。
対して、カメラマン(プロとしての、から、旅行の思い出を写す素人としての、まで)は思い出として写真を残すからには美しくしなければならない。素人はもちろん、プロはその美しさから評価が問われるからなおさら、である。
もちろん、被写体のスタンスによってもまったく違うだろう。村上春樹の「村上ラヂオ」に、『トルーマン・カポーティのデビュー作の著者近影が病的に美しく、いったいどうやったらそんなに美しく写るのか、と聞かれて、トルーマンが「そんなの簡単だよ。君の頭の中を、美しいものでいっぱいにすればいい。美しいもののことだけを考えるんだ。そうすれば美しい顔に写る」と答えた』、と書かれている。本当かどうかは知らないけど。
ようは向こうに美しく(あるいは、良く)写す気があるかどうか、ではないだろうか、と言う主張なのだけど、まぁ、スタンスだの取る側の意志だなんて言ったって結局カメラの原理は一緒なわけで、そのときの光の加減云々によっても写真は変わってしまう。本当の自分の顔は、自分の目で見ることはできないのだから、案外免許証用の写真が一番自分に近いのかもしれない。

ちなみに僕の写真は「人類なんて滅んじまえ」と言わんばかりの仏頂面でしたが、頭の中はタバコを吸うことでいっぱいでした。うまくいかないもんですねぇ。

ちなみついでにもう一つ。ジャッキー・チェン荒木飛呂彦ってなんか似てるなぁ、とふと思ったのですが、何が似てるって、二人ともいつになっても写真の顔が年を取ってないんですよね。荒木飛呂彦の著者近影もある意味病的、ではある。