Nobody knows him

「キラキラネーム」「DQNネーム」
これはほぼ同じ事象を示している。ただそれに対する人間の見方が違うに過ぎない。
上記2つは主観的な感情が多分に込められた呼称だが、他に該当する呼称がないためここでは「キラキラネーム」で統一する。


正直なところ、「キラキラネーム」なるものを己が子につける人間の割合は、そう多いものではないと考えていた。
大雑把な印象ではあるが、新生児のおおよそ2割程度というイメージだった。
最近、仕事の都合でかなり多くの新生児、または2、3歳児のデータを見る機会があった。
守秘義務があるため詳細は語れないが、考察の取り掛かりとしては十分検証に値するデータ量と感じる。
正確に数えたわけではないが、私の想像を超える量の「キラキラネーム」が存在した。
ただ、かなり印象に残る名前が故に多く感じてしまったという感は若干否めない。


なるべく客観的に「キラキラネーム」の特徴を挙げる。
・漢字本来のものとは異なる読み方を充てる
・直感的に「かっこよい」「かわいい」と感じる漢字を多用する
  ただし上記の感情は個人、世代に多く依存する。
  ここでは名付けた人間、つまり親に依存する。
・一見では読めない


これらの特徴から名前という存在の立ち位置が変遷しつつあるように感じる。
本来名前とは極めて公共性の高いものである。
なぜなら名前とは他者が認識することによって初めて意味を成すからだ。
自己の認識は「自己」で済むことであり、名前の必要性は全くない。
前提として大きな矛盾を持つことは承知の上だが、仮に、無人島で名を付けられずに一人で育った人間は自身に名を付けないだろう。その必要がないからだ。
そのため、名前には公共性を持つ上で「誰でも読める」という条件が必要であったことがわかる。
しかし、昨今では公共性という概念は重要でなくなりつつある。
正確に述べると忌避される傾向が強い。全体主義に結び付けられるからだ。
第二次世界大戦後、日本の全体主義への嫌悪感は非常に強い。
集団性・社会性の強い行動は戦前への退化と捉えられ易い。
それは戦後の日本の歴史を鑑みれば当然の結果であるし、その結果の是非は問わない。
話の路線を戻すと、「キラキラネーム」はその結果である個人主義の顕在化によるものと考える。
先にも述べたように個人主義の是非は問わないし、自分自身もどちらかと言えば個人主義的な思想に寄っていると思う。
だが、名前に置いては個人主義的な思想を持ち込むべきものではない。
なぜならその結果名前に現れるのは名前を持つ本人ではなく名前を付けた人間の思想だからだ。
他者への尊重を失った個人主義はエゴイズムの塊でしかない。
「キラキラネーム」は個人主義の暴走と言えるだろう。