murder because of ignorance

※ここから先の文章は不謹慎かつ気分を害する可能性があります。
 「こうあるべきだ」とかいうわけではなく、あくまで
 個人的な意見や感想を書き散らしただけ
 なのでそれを踏まえてから読んでください。↓
 (別になんか悪口とか書いてあるわけじゃないです)※





































世界では多くの人が殺されています。
戦争から個人まで、いろいろありますがスケールの違いは関係ないでしょう。
人一人の死には差はないと思います。
これは倫理観念とかそう言うことではなく数字的に、ということです。
つまり多くの人が殺される戦争でも個の殺人の連鎖である、と考えます。
人が一人死んだ、とカウントするならば、ジョン・レノンが熱狂的ファンに殺されたことも、銀行強盗が人質殺した挙句に自殺しても一回は一回なわけです。(もちろん生きている人にとっての意味はまったく違いますが、そういう感情云々を抜きにした場合です)


非情だ、と思うかもしれませんが、我々は無意識にこのカウントに対して慣れ切っていると思いませんか。


よく交番にある「今日の交通事故○○件 死者○○人」
これを見てこの死者の人生に思いを馳せて涙する人は遺族以外にはそういないでしょう。
だいたいの人は「ふーん、県内で死んだ人がいたんだ」と思うだけです。
ニュースでも死傷者がただ数字で表されて流さています。


もう一つ、外国で事故、事件が起こったとき
「邦人の死傷者はゼロです」
と言うことがあります。
これを聞くと、まるで
「日本人は無事でした。よかったですね」
と聞こえることはありませんか。
そして実際日本人が死んでいなかったことに安堵していませんか。
外国人だろうが日本人だろうが人が死んだことに変わりはありません。
そして日本人が死んだとき、事の更大騒ぎする。

グローバリゼイションがどうのこうの言うわけではありません。
ここで言いたいのは「人間の生死観はあまりに不明瞭だ」ということです。


上記では死に方を問わず、ただ「死」と書きました。
では殺人はどうでしょうか。
この世界では殆どのケースで殺人は認められません。殺人はタブーなのです。
しかし、先ほどの僕の仮説では「戦争は個の殺人の連鎖である」としています。
ならば戦争はやはりタブーです。それにもかかわらず戦争は起こっています。
それ以前に、殺人がタブーでありながら殺人事件は起こっている。
タブーであっても人は人を殺してしまいます。
それでは逆に、なぜ殺人はタブーなのでしょうか。
もっとストレートに言いましょう。


なぜ人を殺してはいけないのでしょうか。


「なぜ人を殺してはいけないのか」と人に聞けば、恐らく「こいつは気違いだ」と思われるでしょう。
しかし、人はその問いに対して明瞭な答えを持ち合わせていません。
「法律で決まっているから」と言うのは、答えになりません。
基本的に法律は「大多数の人間が守るべきだと思っているもの」です。
「殺人は罪」と言うのは、多くの人間が殺人はしてはいけないものと考えていることの具現化に過ぎません。
罰せられるから、という答えは「なぜ殺人は罰せられるのか」という新たな問いを生み出します。
「その人の人生を踏みにじったから」などの感情論もあるでしょう。
では「なぜ人の人生を踏みにじってはいけない」のでしょうか。
ここまで書くと、非常識を通り越して異常と思われても仕方ないでしょう。
しかし、常識とはあくまで人間が作った文章化されていない法律です。
この常識を外して考えてください。
「なぜ人の人生を踏みにじってはいけないのか」
これに対する答えは「悪いことだから」が最も一般的と思われます。
もっと簡略化して「悪だから」とします。
ここまでの話をまとめると「殺人=悪」となります。
詰まるところ善悪論になるわけです。
ここまでくれば話の先の予想はついてくると思いますが、では何が善で何が悪かを誰が決めたのでしょうか。
これは人間です。(ここで神仏云々の話は抜きにします)
では人間は何を根拠に善悪を決めたのでしょうか。
僕はここで思考が詰まりました。
我々人間は善悪に対して確固たる根拠を持っていないのではないでしょうか。
ここでやや強引に等式を引くならば
「我々は殺人をしてはいけないということに対して明確な理由を説明できない」
となります。
話の論点に戻して言えば
「我々はなぜ殺人をしてはいけないのか知らない」
ということです。
この場合論点は殺人なので善悪論のその他の悪については言及はしません。
そして僕はあくまで「知らない」と仮説を立てただけで「理由がない」と言っているわけではありません。
ここで出た仮説は「我々はなぜ殺人をしてはいけないのか知らない」です。


ここでもう一つの問いが出現します。
なぜ人は根拠も持たずに殺人をしてはいけないと知っているのでしょうか。
あなたは「人を殺してはいけない」と誰かにはっきりと教えられたでしょうか。
恐らく人は「わざわざそんなこと教えなくたって」と言うでしょう。
それはどうでしょうか。
我々は生まれて成長する間、それを学んでいる(教えられている)はずです。
http://www.nazoo.org/marderer/marybell.htm(←これも相当に気分を害するので覚悟してから読んでください。あるいは覚悟できなければ読まなくても結構です)
信頼に足るソース、と言えるかはわかりませんが、事実とするならいくつかの記事からあることがわかります。
彼女は殺人が悪いことだと知らなかった、ということです。
上のソースを読まなかった人は、悪と知らずに殺人を犯した人間がいた、と理解してください。
もちろん普通の人間は殺人を悪と知っています。彼女は反社会性人格障害(APD)と認定されているのでこのケースは稀であると言えます。
しかし、APDには
「家族の内部で過去に反社会的な行動、薬物などの乱用、両親の不仲による離婚、虐待などがあったことが認められることもある」
という考察もあります。
家庭とは小さな社会であり、多くの子供はその社会の中で成長します。
極論、人は社会の中で「人を殺してはいけない」と教えられなければ人を殺すのです。
しかし、「人を殺してはいけない」と知っている人も人を殺します。
これは、その時人の思考から「人を殺してはいけない」という概念が消えている、と考えられないでしょうか。
人を憎い、人を殺したい、と思うことも時として人にはあります。
だからと言ってそう思った人がみな人を殺すわけではありません。
その感情がある一定まで達したとき、「人を殺してはいけない」という概念が消え、衝動的にしろ計画的にしろ人を殺すのです。
しかし、社会もまた人の集まりです。遡ると、人はいったい誰に「人を殺してはいけない」と教えられたのでしょうか。
神仏を認めない限り、人は人にしか物事を教われません。
ならば、どこかで「人を殺してはいけない」と気付いた人間、もしくは社会が存在したはずです。
しかし、我々は彼らがいつそれに気付いたかはおろか、なぜ気付いたかも知ることはできません。
なぜならすでに「我々はなぜ殺人をしてはいけないのか知らない」からです。


ここまで述べたことは正直、仮説だらけで穴の開いた論証ばかりです。
結局「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いの答えも見つかってはいません。
そして、もちろん「だから人を殺していい」と言うわけでも決してありません。
それでも、我々が言う「人を殺してはいけない」という概念は、あまりにも薄弱な理論の上に立っているとは思いませんか。


僕には人は無意識のうちに「なぜ人を殺してはいけないのか」を考えたがらない、もしくは考えようとしていないような気がします。
それはその「なぜ」に由来してるのかもしれません。
そしてその「なぜ」は知るべきではない、のかもしれません。




書き散らし、というかてきとーな論考は以上です。
これ以上考えるとマジで頭がおかしくなりそうなので。
あくまで書き散らしなので不備、不良はご了承ください。